俳優革命 – プロ演技トレーナー(講師)/仲祐希の現場ノート

プロ演技トレーナー(講師)である仲祐希が独自の視点で語る俳優革命論

【第94回】あなたの教わった演技メソッドは本物か?

演技メソッドという“思想体系”

 世界には、数多くの演技メソッドが存在する。
 スタニスラフスキー・システム、マイケル・チェーホフ・メソッド、マイズナー・テクニック、ベラ・レーヌ・システム、ストラスバーグのメソッド演技――。
 それぞれに創始者がいて、そこに至るまでの人生と哲学がある。

 彼らはただ「演技のやり方」を編み出したのではない。
 俳優とは何か、人間とは何か、そして“真実を演じる”とはどういうことか――。
 その問いに、人生を懸けて向き合った人々だ。

 彼らが残した著書は、単なるマニュアルではない。
 それは一つの思想体系であり、人生そのものの結晶である。
 だからこそ、それらの著書こそが原教本(オリジナル・テキスト)であり、その思想を学ぶうえでの唯一無二の拠り所となる。

創始者”という出発点を忘れた現場

 だが、いま日本の多くの演技スクールやワークショップでは、「〇〇メソッドを教えます」と掲げながら、原教本を一切使用していない。

 スタニスラフスキー・システムを教えるなら、本来は『俳優の仕事』(岩田貴・堀江新二・浦雅春・安達紀子 訳/未来社)をテキストとすべきである。
 ベラ・レーヌ・システムならば、『ベラ・レーヌ・システム』(岡田正子 著/早稲田小劇場出版局)を用いるべきだ。

 だが、実際にはどうだろう。
 講師が自作したプリントやまとめノート、あるいは他者の要約を“テキスト”と称して授業が行われている現場が多い。
 そこには「創始者の思想」ではなく、「講師個人の解釈」が入り込む余地がある。

 本来、演技メソッドとは“個人の流儀”ではない。
 それは思想の継承であり、創始者との対話である。
 その原点を見失ったとき、教育は“継承”ではなく“改変”に堕する。

原教本を欠くレッスンは“宗教化”する

 原教本を用いないレッスンの最大の問題は、受講者が検証できない構造にある。

 講師がどんなに熱心に教えても、その言葉が創始者の思想に基づくものか、あるいは単なる個人の解釈なのか――受講者には判断できない。

 原教本を提示せず、講師の立場で「これが正しい」と言い放つのはあまりにも乱暴であり、また、受講者側も「先生が言っていたから」で理解することは、真実を探究する学び”ではなく、“信じ込む教育”となってしまうことだろう。

 俳優教育は、感覚や感情という曖昧なものを扱うものだからこそ、創始者の言葉をよくよく検証することがとても重要であることは言うまでもない。

マイケル・チェーホフ・メソッドの“空白”

 私がマイケル・チェーホフ・メソッドを教え始めた2年程前、その原教本『演技者へ!』(ゼン・ヒラノ訳/晩成書房)は絶版となっており、中古市場では1冊、6,000円~1万円という高値で取引されていた。

 当然のことながら、新品を買うすべはない。

 だが、この時も「マイケル・チェーホフ・メソッド」を教えるワークショップは各所で開催されていた。

 はたして、これらのワークショップで「演技者へ!」は使用されていたのだろうか?

 もし、使用されていなかったならば、一体、何を教えていたのだろうか?

 それがどんな内容であったとしても、受講者たちは、これが“チェーホフ・メソッド”だと信じるしかないのである。

――そこにこそ、俳優教育の盲点がある。

 私はマイケル・チェーホフメソッドを教えるにあたり、自分で出版社に直接交渉し、『演技者へ!』の復刊を実現した。

 この一冊を、正しい形で日本の俳優に届けるためである。

 私のワークショップを受ける人達には、もれなく教本として新品の「演技者へ!」を買ってもらい、そして、その一語一句を追いながら講習を進めていくのである。

原教本を読む ― 「語学の壁」を超える努力

 本来ならば、俳優は原語(英語、ロシア語、フランス語など)で読むのが理想である。
 しかし、語学の問題からそれを実現できる俳優はごく少数だ。

 だからこそ、日本語訳の存在は非常に重要である。
 「翻訳は信頼できない」と言う人もいるが、それは浅はかな誤解であろう。

 翻訳書とは、専門家が創始者の思想を正確に伝えるために、一語一語、責任をもって言葉を選び抜いた成果である。
 さらに、その訳文は編集者が内容をチェックし、学術的整合性を担保したうえで世に出される。

 つまり、日本語訳であっても、それは創始者の意図を伝えるための正確な媒介なのである。
 大切なのは、原語で読むことよりも、創始者の思想を誤解せずに学ぶことだ。

「教える」とは、“原典を守ること”

 上述の通り、私のワークショップでは、全員に『演技者へ!』を定価で購入してもらっている。
 その本を片手に、1ページ目から一語一句飛ばさず、実践を通して読み解く。
 ページをめくる速度は遅いが、理解は深い。

 もちろん、私の解釈を述べることはある。
 だが、そのたびに私はこう言う。

「正しいかどうかは、原教本を読み、検証を通して確かめましょう。」

 これは“講師の誠実さ”の問題である。
 私自身が、創始者の言葉を盾にせず、自らを律するためのルールでもある。

 教育とは、思想を「支配」することではなく、思想を「継承」することだ。
 原教本を無視して“我流”を説くことは、もはや教育ではなく、妄言である。

 創始者はもうこの世にいない。
 だからこそ、教える者が最も気をつけなければならないのは、「死人に口なし」の横暴を犯さないことだ。

 私が『演技者へ!』を原教本として使うのは、マイケル・チェーホフという一人の芸術家に対して誠実でありたいからである。
 そして、受講者にとってもそれが最も安全で、最も真実に近い学び方だからだ。

講師がやって見せられないなら、それは教えではない

 それから、これはとても重要なことなのだが、原著書を手にしても、講師がそれを“身体で見せられない”なら意味がない。

 俳優教育は“語る”ことではなく、“見せる”ことで証明される世界だ。
 「チェーホフはこう言っている」と講釈を垂れるより、一瞬の身振りでそれを体現する方が、俳優にとって何倍も説得力がある。

 そして、講師がやってみせることで、チェーホフの言葉が初めて理解できることが、本当にたくさんあるのだ。

 講師とは“実演できる哲学者”でなければならない。
 そうでなければ、言葉だけが空回りし、思想が形を持たない。

 言葉で説明することは誰にでもできる。
 だが、“実演で示す”ことができる者こそが、本物の教師であろう。

本物を教えるとは、“透明であること”

 真に本物を教えるとは、受講者にすべてを見せることである。
 「どの一文に基づいて話しているのか」「どの章のどの部分を実践しているのか」
 その出典を明示することで、受講者は安心して学べる。

 講師が「ここは原文ではこう書かれている」と示せば、受講者は自ら読んで、考え、確認することができる。

 この“透明性”こそ、教育の信頼を支える柱である。
 隠しごとをする教育には、必ず歪みが生まれる。
 だが、すべてを開示する教育には、信頼と再現性が生まれるのであり、このことは教える側の人間は、よくよく肝に銘じておく必要がある。

 


 

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