・マイケル・チェーホフのいう「俳優」とは?
「俳優」とは誰のことを指すのか。
この問いを真正面から受け止める人は意外と少ない。多くの人々は「映画やドラマ、舞台に出ている人=俳優」と考えているだろう。しかし実際には、その中身を精査すると、世間で「俳優」と呼ばれている存在の大半はタレント俳優にすぎない。
そして、少数ながら「俳優の身体」を持っている人もいるが、これはまだチェーホフの言う意味での俳優ではない。
この違いを明確に理解しなければ、俳優を志す人は間違った方向に努力を続け、決して「芸術としての俳優」という高みに至ることはできない。
今回は、マイケル・チェーホフが示した「俳優」という存在と、世間一般で言われている俳優との決定的な違いについて語ってみたい。
・一般的に言われる俳優とは
世間で「俳優」と呼ばれる人の多くは、実際にはタレント俳優だ。
ドラマや映画に出ている芸能人、あるいは舞台に立つ役者たちを私はそう呼んでいる。もちろんその中には「俳優」と呼ぶに値する技術を持つ人もいる。しかし、それはあくまで「俳優の身体で居る人」という意味であり、チェーホフの目指した「俳優」への道を歩みだした者という意味だ。
「俳優の身体で居る」とは、演技をしているときに観客に強い存在感を放ち、役に見えるように舞台やスクリーンに立てる技術を持っていることを指す。
この段階に至った俳優は「演技が上手い」と評価されることが多い。確かに、それは俳優としての大切な基盤である。しかし、これはまだ入り口にすぎない。
・「演技が上手い」と評される限界
ここで大切なのは、「演技が上手い」と評されることが、決して最終到達点ではないということだ。むしろ、チェーホフの観点からすれば、それはまだ中途の段階にすぎない。
観客や評論家は、しばしば「○○さんは演技が上手い」「凄い」「上手すぎる」「ヤバい」といった言葉で評価する。この時点で、観客が見ているのは「役」ではなく「俳優本人」である。
つまり、「○○さんが演じている」ことが透けて見えてしまっているのだ。
一見、それが俳優の評価としては正しいように思える。だが、チェーホフが語る俳優の理想像からすると、それは決定的に違う。
・チェーホフの言う俳優とは
マイケル・チェーホフの俳優観は、世間のそれとは全く異なる。チェーホフにとって俳優は「芸術」である。演技と俳優は区別され、俳優は役そのものになる存在だ。
そのため、観客は俳優の名前を忘れ、役の名前を呼ぶようになる。
例えば、舞台上である俳優が「ハムレット」を演じているとしよう。
観客がその俳優を見て「あの人の演技は上手い」と思った時点で、それはまだ俳優本人を意識している証拠だ。だが、本物の俳優であれば、観客は「ハムレット」としか見なくなる。
そこに居るのは「○○さん」ではなく「ハムレット」そのものなのだ。
この現象は美術作品にたとえると分かりやすい。モナ・リザを鑑賞するとき、人は「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵だ」とは意識せず、「モナ・リザ」という作品そのものを鑑賞している。
同じように、チェーホフの言う俳優とは、観客が俳優の存在を忘れ、役そのものを鑑賞するような存在である。
・演技と俳優を混同してはいけない
要するに、「演技が評価される」ということは、観客の目にはまだ「○○さんが演じている」と映っているということだ。そこに現れているのは役そのものではなく、俳優本人である。
チェーホフが目指した俳優とは、その真逆にある。
観客に「○○さんの演技が上手い」と言わせるのではなく、観客に「そこに役が存在していた」と感じさせること。
俳優本人の影を完全に消し去り、役として舞台に立ち上がること。これこそが、チェーホフの言う芸術としての俳優なのだ。
・現代における不在
私は全ての俳優の演技を見たわけではないので、もちろん断言はできない。それでも昨今の特に映像作品に出演している、または、出演作品が残っている有名な俳優たちの演技はある程度は見ている方だとは思う。
だが、残念ながら、現代においてこの意味での俳優は見当たらない。
演技が上手すぎると評される俳優、つまり「俳優の身体」に気付いている人たちはちらほら存在する。しかし、そこから先――チェーホフが語った「芸術としての俳優」の領域に到達している人を私は殆ど見たことがない。
だからこそ、観客もまた「芸術としての俳優」を目にする機会がない。
俳優の高みが芸術の領域にあるということを知らないため、皆が目指す高みも「演技が上手い」というレベルで止まってしまうのだ。
俳優志望者にとってこれは非常に不幸な現実である。目指すべき頂が見えなければ、そこに辿り着けるはずがないからだ。
その点で、マイケル・チェーホフの出演作が映像として残っているのは幸運である。
「白い恐怖」(監督はアルフレッド・ヒッチコック)という映画でマイケル・チェーホフはアレックス・ブルロフ博士(コンスタンスの師)を演じている。俳優を志すものは必ず一度は観ると良いだろう。

<マイケル・チェーホフが演じるアレックス・ブルロフ博士>
私はこの現実を少しずつでも変えていきたいと思っている。
俳優とはタレントではなく、役者でもなく、芸術家である。
俳優は人間存在を役を通じて表現し、観客に感動や気づきを与える芸術の担い手だ。
その本質を忘れ去った現代の演劇界において、マイケル・チェーホフが描いた理想の俳優像を再発見し、現実の場に体現していくこと。その道があることを、俳優を志す人達に伝えることが私の役割だと思っている。
俳優という言葉を職業名の一つとして消費するのではなく、芸術の名として復権させたい。観客が「演技が上手い」と俳優を評するのではなく、「役がそこに存在していた」と語るようになる瞬間を、私はこの世界に取り戻したいと願っている。